痛いとは?

痛いとは?


我々が痛いと感じるのは、いったいどんなときだろう。
ここの痛いとは、身体的な苦痛による痛さではなく、何かの主題に対する評価としての痛さである。

  1. 社会を主体として、その主体が蝕まれてゆく悲鳴を、痛いとするのか。
  2. 個人を主体として、その主体にとって非常識であることを、痛いとするのか。


前者は、社会が悲鳴をあげる事はないため、それが痛い事であるかどうかは判断つけづらい。
後者は、思いこみであるので痛いかどうかの判断は、主体に依存するため簡単容易に判断つく。


そして、たいていの場合、後者として判断された事が、あたかも前者、すなわち社会の問題であるかのように発言される。
(それが、悪い事である。という訳ではない。)
また発言が同様に他者に受容されてしまうのではないか。
という仮説を立ててみた。


この仮説に立脚して考えれば、
声のデカイ人が、思いこみを問題提起する事が、社会問題として認識される事もある。
といえよう。


話は変わるが、
別に「痛い」に限った事ではなく、集団のムーブメントが常識や現実として認識されるという事態。が過去からよくあったことは歴史上わかる。
集団内の常識・現実、が他視点から俯瞰すれば非常識きわまりない、ということは有りえる事だ。


つまり、ムーブメントになることが「痛くない」つまり普通な事であるのか?
真実より、ムーブメント。
コンフィデンスよりムーブメント。


では、ムーブメントはどこから発生しているのか?
声のデカイ人が、発言した内容なのであろうか。
我々は声をデカクして、ムーブメントを作るべきなのか?
それとも、声のデカイ人の発言を判断出来るリテラシーを獲得するべきなのであろうか?


なんだかよく分からない定義づけをされたら、まず自分自身でその対象を判断する必要があるだろう。
なんだかよく分からないまま、うなずいて同意してはいけない。
うなずいたら、共犯者となる可能性が濃厚である。


【最近気がついた言葉】
・痛い〜
・美しい〜
・品格ある〜